みつひろ会長 column       
バックナンバー                                 


・NO.10 アフガン子供の笑顔

・NO.9 「じょんのび村」
        棚田の里を訪ねて


・NO.8 いよいよふたり


NO.7 恩師死す

NO.6 泰平 北京に行く

NO.5 心は亡くさないで行こう

NO.4 ボク泰平です!

NO.3 友人の離婚

NO.2 せかいいちうつくしいぼくの村

NO.1 感謝の実践
NO.10 アフガン子供の笑顔                       BACK

2回のアフガン訪問で、学校や地域でたくさんの子供達に出会った。その写真を見た人は誰もが「子供の瞳が美しい」と驚嘆する。事実、私も「何でこんな綺麗な目をしいてるのだろう」と不思議でならない。表情がとても美しい。アフガンはシルクロードの交易点として多くの民族が集まって出来た国だ。現在でも大きく分けて4民族が暮らしている。
 カブール市内の難民キャンプに立ち寄った時のことである。(内戦でパキスタン難民キャンプに逃げた人達がアフガンに送り返されて行く所もなく、テントで生活している人達)の写真を撮ろうと近づくと、無邪気な顔した2〜3歳位の女の子数人が寄ってきた。全員裸足である。石ころが多く危険を感じるが、子供たちは、平気で駆け回っている。髪の毛が固まっている。近づくと臭い。多分、何ヶ月も風呂に入っていないのだろう。
 アフガンの子供が5歳までに死亡する率は40%に近いという。原因は衛生的に悪い水を飲む、食べ物が貧しく抵抗力がない。病気になっても金がなくて医者にかかれない事があげられる。標高1800m、夏は40℃を越し、冬は−20℃以下になる。レンガと土で作った粗末な家、充分な寝具もなく、風邪を引き肺炎になる確率が高い。
 カブールを少し離れると水道もなく、電気もない。頼るべく井戸だが、長年の干ばつで枯れる井戸が続出している。
 私達が学校をつくる段階になって、賄賂を要求されたこともある。何で!と怒ってみたが、新しい学校を夢見ている子供たちの無邪気な笑顔を思い浮かべて我慢した。
 第3校舎建設の資金目標は300万円だ。今年のバザーで何とか目途を立てたい。そして、来年9月の完成を実現したいと考えている。
 私共のアフガン学校建設に、お陰様で多くの皆さんの賛同を頂いている。皆さんの善意に心から感謝いたします。
 21世紀のナイチンゲールと謳われたノーベル平和賞受賞のマザーテレサはこう云っている。「人間にとって最も辛いことは、飢えることでも貧しいことでもない、誰にも愛されないことです。愛への飢え、孤独こそが最大の課題です。」
 アフガンに学校をつくるバザーは、愛への最大の表現です。一人一人の思い、純粋な行動が学校をつくる。アフガンの子供達を救うのです。
 9月24日、サンセット通りは、善意と愛情に満ちた助け合いの場となるでしょう。

               
NO.9 「じょんのび村」 棚田の里を訪ねて              BACK

 新潟健の黒姫山のふもとにある高柳町は、1200年も歴史がある小さな村だが、「日本の原風景」「日本の田舎」がここにある。日本棚田百選の3ヶ所が高柳町にあり、「棚田の里」として写真家や画家達に愛されている村でもある。

 全国の棚田を撮り続けている写真家の永田博義さんの案内で昨年9月に棚田の稲刈り見学、今年の5月に山菜採りと2度高柳町を訪れた。棚田見学や山菜採りに連れて行ってくれる便利で安価な企画である。
 ガイド役の中村喜一さかは高柳町に生まれ育った人だから、棚田であればどこのポイントで見ると美しいとか、山菜であれば旬の山菜はどこで採れるかなど知り尽くしている重宝な人だ。彼のおかげで私たちの「じょんのび村」の旅は実に楽しい旅となった。
 日本の棚田が危機状態にあると永田さんからレクチャーを受けていたが、実際に現地を見ると農業経営の前途の厳しさが実感できる。「あんな山の上にも棚田がある」という風景は見るのも楽しいし、美しい風景であるが、その棚田を維持している農家の苦労は並大抵ではない。心から敬意を表する。
 宿の「じょんのび村」は高柳町がつくった温泉付の宿泊施設だ。広い敷地に大きな温泉と食事処と宿があって町の人たちの憩いの場所となっている。最初「じょんのび」と聞いても何の事かわからなかったが、「じょんのび」とは『ゆったりのんびりとして、新から心地良い・・・』と言う意味が実感できる町である。
 短い滞在だが、景色も人の心も「じょんのぴ」で心地良くて帰るのが嫌になるくらい。夕食時に訪ねてきた前町長が「田を貸します、誰か希望者はいませんか?」と呼びかけていた。
 10月8日には“狐の夜まつり”というお祭りがある。この時は、人口2,000名の何倍にも膨れあがるという。
すっかり「じょんのび村」のファンとなった私と一緒に“狐の夜まつり”を見に行きませんか?


NO.8 いよいよふたり                            BACK  
 
次女の亮子(あきこ)が嫁いで、いよいよ妻とふたりきりの生活になった。
いずれそうなると覚悟はしていたし、亮子は普段から自分のパターンで生活していたから、さほど淋しくなかった。が、どんな食事を作っているのか?仲良くしているのか?・・・心配はつきない。
 亮子は昭和48年に松戸で生まれた。その時私は30歳。ようやく父親としての自覚ができた頃だった。末っ子でかわいくて仕方がなかった。寝るのも一緒、風呂も一緒。私の都合で思う存分亮子を甘やかした。甚だ迷惑だったことだろうと深く反省しているが、亮子もそのツケを背負わされて今が大変だと思う。
 容姿は妻に似ているが、性格は私に似ている。映画や音楽、本が大好きだ。映画などは見る人の感性によって千差万別だが、妻に「お父さんと性格が似ている」と言われるとムッとしていた。
子供達の成長期の頃は、毎晩帰宅が遅く、まさに母子家庭のようだったと家族全員に言われる。それに、父親参観日とか入学・卒業式は一切行かず、運動会さえ見たことがない。そんな家庭を守ってくれた妻(智津子)には本当に感謝している。
 妻は、自然が大好きで草や花をこよなく愛す。小さい庭だが、いつも手入れを怠らない。「ほらほら、花が咲き始めた、きれいでしょう」「あの蕾がやっとふくらんできた」など話しかけてくる。以前は花より団子の私だったが、いつしか妻に感化されて花の美しさに見とれるようになった。
 老後には、大きな庭のある家を買って、思いっきり好きな草花作りをさせてあげたいと思う。今年の妻の誕生日に花を買ってきてテーブルに飾り、電灯を消してロウソクの明かりで食事をして静かな夜を過ごした。
 最近「凝った」と言う妻の方をマッサージすることがある。以前は「くすぐったい」と逃げていたが、今では大人しく背を向ける。マッサージする背中が小さくなったような気がする。 
 結婚して39年・・・苦労をかけた妻の背中を労わる気持ちで肩をもみ続ける。  
                                               
  
NO.7 恩師死す                                 BACK
 
私が最も尊敬していた高校時代の恩師河野聖先生が亡くなられた。未だ78歳だ。長くガンと闘っておられた。河野先生は熱血漢で正義心の強い方だった。定年前に教職を辞められたが、帰郷した時に理由を聞いた。「昔は授業中に居眠りをすると怒鳴り飛ばしたが、この頃はその気力がなくなった。気力がなくなったら教師は終わりよ」自嘲気味に笑っていた。確かに私たちの授業は居眠りでもしたら、すぐチョークが飛んできた。怒る時はしわを立てて本気で怒る。先生のあだ名は『三本じわ』。河野先生の授業だけは全員静かだった。
 私が卒業して大阪に行く前日、先生の自宅に挨拶に行ったがあいにく不在だったので、奥様に挨拶して帰った。その翌朝の事である。確か7時頃だと記憶している、河野先生が私の家に来られたのは。
 少し真剣な表情で「金本、ちょっと話がある。外に出れんか」。先生とふたりで近くにあった人気のない病院の屋上に行った。
 河野先生はいきなり頭を下げて「金本、許してくれ」と私に謝り始めた。理由はこうでした。その学校では歴代生徒会長が卒業式の答辞を読む決まりだったが、職員会議で私には答辞は読ませない事に決まった。自分が自分が職員会議でもっと頑張れば良かった。君には本当に申し訳なかった。許してくれ・・・と深々と頭を下げるのです。先生が生徒にですよ。私はびっくりして声も出なかった。私は、卒業式の件は全く知らない事だったが、本当の事を伝えようとする先生の言葉がうれしかった。卒業して43年になるが、時間が経つほどに先生の行動が身に沁みる。先生は言葉ではなく身を持って私に正直に生きる事、正しく生きようと教えて下さったのだ。
 今でもはっきり憶えている。4月の頬をなでる爽やかな風と小鳥のさえずりと船の汽笛と先生のやさしさを。
 又ひとり大事な人が私のそばから消えた。
 河野先生安らかに・ ・ ・
。     合掌                                                                                 
NO.6 泰平 北京に行く                            BACK

 私には泰平という9歳になる孫がいる。泰平の事はこの欄で度々書いているのでご存じの方も多いと思う。
私が苦虫をつぶした様なしかめ面をしている時に、知人は「泰平君は元気?」と挨拶代わりに声をかけられると、それまでの顔が一瞬にしてデレデレしたおじいちゃん顔に変身して孫の自慢話を始める。知人は、長々と孫の自慢話を聞かされるハメになる。
 泰平が生まれた時は、自分の子供が生まれた時にはない感情に包まれた。我が子の誕生は嬉しいと同時に父親としての責任を感じて身が引き締まる思いをしたものだが、泰平の誕生の時は私の命の連鎖というか、命のつながりを感じさせてくれた。私の命の一部がまぎれもなく泰平に受け継がれている。命のバトンタッチに成功した思いだった。
 2歳の時にインドから帰国した泰平の家族は幸いに東松戸に住んでくれた。私の休日には必ず泰平と会っていた。会うのが楽しかった。マンション暮らしの泰平は、我が家でのプロレスごっこや怪獣ごっこに夢中になって遊んだ。近くの小学校や公園も遊び場だった。5月の連休や夏休みには娘に断って両方のじじ・ばばと泰平でテニスや旅行をしたものだ。
 小学校に入学と同時に泰平は八丁堀に引っ越しをしたので、それまでのように会えなくなった。それでも、会う努力をし続けた。もうすぐ、3年生になると思いきや娘から北京に行くと告げられた。夫の転勤である。最低でも5年だという。泰平に会えなくなる。聞いただけで放心状態になった。言葉も習慣も分からない中国に行く。それだけで、泰平が可哀想だと思い込み、めそめそしていたが、当の泰平は北京に行くことを喜んでいたのには驚いた。娘夫婦が魔法でもかけたに違いないと思っていたが、結局寂しがっておろおろしていたのは自分だけだった。妻の智津子は私には同情をするが、状況判断は早い。ひとり置いてきぼりになった私の心は、2月に成田から飛び立つ泰平の姿を想像しては今から涙ぐんでいる。                                                                           

NO.5 心は亡くさないで行こう                         BACK

 秋も深まってきた。今年も感謝祭が終わり、アフガンバザーも終わった。感謝祭は初めて土曜日の夜に開催したが800人を超えるお客様が来てくれていた。内容的には最高だったと自負している。お客様の反響も一番良かった。
 アフガン学校バザーは雨で1週間遅れとなったが売上が約32万円とは凄い
善意が集まる日だ。当日は夏の暑さになったが、社員も手伝いの協力会社も必死に頑張ってくれた。当日だけで募金が約21万円、当日までの募金が約40万円。いつも思うことだが、信頼して募金する方の期待を絶対に裏切らない。その意を強く持った。
 学校建設資金が現在938,000円になった。この分だと来年にはカラエ・ワジル学校にもう1校舎建てられそうだ。本当に有り難いと思う。しかし、アフガンの情勢が厳しくなってきた。前回気持ちよく送り出してくれた妻にも若干変化が見られるのが気にかかる。それから、東葛地方で初めての試みである東葛5市の実行委員会による東葛映画祭があった。私が会長をしている東葛シネマクラブも松戸実行委員会のメンバーとして活躍した。2日間に5市で40本の映画見放題という前代未聞のこの企画は圧巻だった。
 人は「身体がいくつもあっても足りないね」と冗談を言う。思わず「忙しい」の言葉を飲み込んだ。平気で「忙しい」「忙しい」と言うけれど『忙』と言う字には「心を亡くす」と言う意味がある。「心を亡くした行為」とはどんな行為なのか。そこは愛も無ければ善意も無く心が伝わらない行為となる。人生は短い。生きている瞬間をじっくり味わいながら、残り少ない秋を楽しもうと思う。

                                      
NO.4 ボク泰平です!                              BACK
 
ボクは松橋泰平です。小学校に上がる時、松戸から中央区に引っ越ししました。今は明正小学校の二年生です。一学年1クラス、小さな学校ですが、お友達も出来て楽しいです。松戸の爺ちゃんは、ボクが引っ越しをした時は「淋しい」「淋しい」といって泣いたらしい。ボクが松戸に居た時は爺ちゃんの休みの日は必ず会っていたからだと思う。
 公園でかくれんぼやテニスをしたり、交通公園にも良く連れて行ってくれた。おかげで自転車に乗れるようになった。爺ちゃんの家ではいつも怪獣ごっこをした。ボクの家はマンションだったから、ママに「下に響くから」「隣にうるさいから」と言って叱られたが、爺ちゃんの家ではどんなに騒いでもどんなに怪獣ごっこをしても平気だった。爺ちゃんの家に泊まって、寝る前にも布団の上で怪獣ごっこをしたし、寝るまで本を読んでくれた。
 爺ちゃんはボクのこと大変可愛がってくれたが、少し迷惑でもあった。いつだったか「おじいちゃんは泰平君のこと好きみたいね?」と聞かれた時、「爺ちゃんボクのこと好きすぎるんだよ」と言ってみんなに大笑いされた事があった。
 爺ちゃんと婆ちゃんは春休みには「鴨川シーワールド」とか「竜宮城」に、夏休みには「四万温泉」に連れて行ってくれる。爺ちゃんは四万温泉が好きで、もう20年近くも行っているそうだ。毎年爺ちゃんのお友達もテニスをやりに集まっているみたい。
 ボクも四万温泉でテニスを習った。初めて試合をした時は緊張したが楽しかった。爺ちゃんたちはテニスもするが、お酒を飲みに行っているような気がする。クワガタやトンボがいて、今年も楽しい夏休みだった。
        
NO.3 友人の離婚                                 BACK

 高校時代からの友人で今でも年に何回か一緒に旅行したり、飲み会をやる気の良い友がいる。彼と一緒に居るだけで心が満たされる、かけがえのない友人である。
 先日彼から電話があった。「次の火曜日にお前んちに遊びに行ってもよいか?」「ああ、いいよ、ついでに泊まっていけよ」と話はまとまった。家に帰ってから食事の用意をしていた妻に話すと「何か用事かあるんじゃないの?息子さんのことかしら」と妻が言った。「うーん、そうだな」と平凡だが幸せそうな彼の家庭からは何も想像できずに、その日を迎えた。
 友人が来て、2人は妻の手料理に舌鼓を打ちながら、ビールを飲み始めた。「友あり遠方より来たり、又楽しからずや」の気分である。程よい時間が過ぎた頃、彼は「金本、おれ離婚したんだ」とさりげなく切り出してきた。一瞬、耳を疑った。「離婚?どうして?」妻も実を乗り出して聞いている。「中古の家を買ったんだ。そして引っ越しの準備をしていた、その家で貴方とは一緒に暮らしたくないと言われた」「それでお前はなんて言ったんだ」「そうか、仕方がないなと言うしかなかった」「で、終わったのか」「うん」。
何とも暗い話になった。離婚の危機だったら、未だ口の出し様もあるが、過去形で言われたらどうする事も出来ない。慰めの言葉も見つからないまま2人は飲み続けた。翌朝、「お前が原因で別れたのではなくて良かったよ。奥さんには何ら傷つけずに済んだから」と言って彼を慰めるしかなかった。
 その日の夕方、家に帰ったら妻が開口一番「離婚したら年金を半分奥さんがもらえることになるらしいから離婚が増えているらしいよ、超時間番組で。見ていて可哀想だった。」友人のまさかの離婚で気が滅入っていた翌日である妻の話を聞きながら何とも嫌な気分になった。
                                                         
NO.2 せかいいち うつくしい ぼくの村                    BACK

 せかいいちうつくしいぼくの村という絵本がある。
(絵・作は小林豊さん)舞台はアフガニスタンだ。四年生の教科書に出てくる本だそうだ。
 先日、アフガンの第二校舎完成・引渡しが無事に終わり、その翌日に地球村の羽鹿さんと植林した学校に行った。その学校は、首都カブールから車で2時間程離れた田舎にあった。アフガン特有の悪路に揺られて、次第に山に入っていった。河には水か溢れ、木々は明るい緑に覆われていた。学校に着いて植えた苗木が根付いているかどうかを確認しながら歩いていたが、気が付くとそこは高台で遠くが見渡せた。その風景を見回して思わず感嘆した。鳥がさえずり、美しい風景が展開する。空が青く(日本の空と色が違う)空気が澄んでいるのどかな田園風景だ。50年前の故郷の匂いがする。何か失ったものがそこにあるような気持ちになった。渡しはしばらくその風景を見惚れていた。とても言葉に表せない景色だ。
 実はそこが、「せかいいちうつくしいぼくの村」のモデルになった村だと聞いた。そういえば、たしかに大きなモスクは破壊されたままになっていて戦争の傷跡は生々しい。絵本は「このとしのふゆ 村はせんそうで はかいされ、 いまは もう ありません」で終わっている。絵本は1995年に書かれている。あれから10年の年月がこの美しい村を蘇らせていた。それも、自然自体の力で。店先で昼寝をする人、農地で働く人、日陰でじっと休む人、遊び回る子供たち、ロバで荷物を運ぶ人、何百年の営みが静かにゆっくり今に続く。なんて美しい村なんだろう。私は時空を超えて、黙ってその場に立ち尽くしていた。

                   
NO.1 感謝の実践                                 BACK

 「森は海の恋人」と云われて久しくなります。山に降る雨が森の養分を海へ運びます。魚は森の木々に含まれる養分を食べて成長します。海に魚がいなくなった時 それに気づいた漁師達は山に木を植え始めました。そうすると次第に魚が海に戻ってきたそうです。
最近森林浴が流行しているそうです。ヨーロッパでは休日には家族揃って森へ遊びに行く習慣があるそうです。私もたまにハイキングをすることがありますが、森に入ると本当に心も身体も癒されます。とても爽やかな気分になれます。森は自然界の恵み、私達人間にとってかけがえのない生命の源であります。しかし、残念ながら日本の森林は瀕死の状態にあります。 日本の国土の68%は緑豊かな森林でありますが、その実態は手入れをせず放置され、山は荒れほうだいです。住宅の材木も80%が輸入に頼っている現状です。安ければ良い、利益が出れば良いという経済効率だけで物事の判断をすることに「本当にそれでいいの?」 ブレーキをかける必要がありそうです。かつて、私達が住んでた家は柱があり、梁がありました。材木は町や村の山の木々を切ったものでした。壁は土壁、漆喰塗りでした。大黒柱があり、床柱がありました。すべてを現在の住宅に対応するのは無理だとしても、日本の良き伝統を守り、それを次世代に引き継ぐのは私たちの責務であると思います。本物の住宅の持つ素晴らしさをひとりでも多くの人に味わっていただきたい、と願っています。それからもう一つ、住宅に対する考え方ですが、かつての家族中心の家からから子供中心の家という考え方に変化してきました。子供部屋には鍵付の「個室」が増えています。そして「個」は「弧」になり、自己中心的な子供を育てていきます。この様式は欧米の影響だと思いますが、アメリカの子供部屋はすべてオープンになっています。形だけ真似してもダメなのです。間取りや部屋の配置が家族や子供の心に及ぼす影響を知るにつけ、家族の崩壊を食い止める為に声を大にして、「家族のだんらん」を呼びかけて参りました幸い私共が建築するFPの家は「家族のだんらん」の実現にぴったりの家です。廊下のない家、リビングの中に階段があるフエース&フエースが実現する家、ご家族の健康に配慮し、自然素材をふんだんに使用しています。
私は26年間、この町に住み、この町を愛して来ました。私はお客様のお役に立ち、地域への貢献、社員の幸せを目指して経営をして参りました。些細な事ですが私の一日は、駅前掃除の清掃からはじまります。通勤、通学の皆さんの心が少しでも和むように雨の日も風の日も清掃しています。社員もよく協力してくれます。環境が汚いと心も荒みます。まずは、自らの足元から環境整備、整理整頓を心掛けています。企業の原点は「感謝」にあります。私の行動の規範は、感謝の実践にあります。
お客様への感謝、地域への感謝、両親への感謝、社員への感謝などが、私を様々な行動に駆り立てます。小さな事、自分にできる事をこつこつと実践しています。

ご意見・ご感想は・・・ 戻る